美術史からみたNFT、NFTを触って感じたこと



こんちゃ。

今回は、美術とNFTを絡めて、

現状NFTアートにおいてどういった作品がどういった経緯で人気になっているのか

ざっくりとまとめてみたいと思います。


NFTに関する記事はネット上に多くあるわけですが、

そのほとんどはお金に関する話です。

マーケティング戦略であったり、送金などの手続きを教える記事や詐欺被害の報告などなど。



NFTはよく語られる一方で、

NFTアートはあまり話題として取り上げられることはないような気がしてます。

単純にアートを語れる人口が少ないのもあるでしょうけど、

そもそも、あまりアートそのものに関心がないのでは?とも思います。

完全に投資先として考えている人が多い
んでしょう。それ自体は悪いことではないですが。



どちらにせよ、NFTアートを取り扱うのであれば、

アートについて多少なりとも学んでおくのは有意義なんじゃないかなと思うわけです。



まず注意事項なんですが、これはコラムであり鵜呑みにするべき情報は一切ありません。

間違ってる部分もかなりあると思いますが、一個人の受けた印象と所感をまとめたものになります。



前置きが長くなっちゃいました。

じゃあいってみましょう。




美術とNFTアートの関係 ポップアートとダダイズム、レディメイド




岩のイラストが安くても500ETH(約2億円!)で売られてるとかいう

とんでもないことになっているのがNFTアートですが、

美術史上で似たような例を考えると、すぐに思い浮かぶのがポップアートです。




アンディ・ウォーホルが手掛けたスープ缶の絵なんかは誰でも知ってるくらいの有名な作品ですが、

あれにどうして注目が集まったのか、どうして高値が付いたのか

これにはポップアートが美術史上のブレイクスルーかつスキャンダラスな運動であったことなど、

いろんな要因がありますが、一つの背景として「大量消費社会」があると考えてます。




大量消費され、何の価値も持たずなんの記憶も残さずに消えていくものたち。

その存在が当たり前になり、ひとつのオブジェクトの意味合いはどんどん薄れていきます。

ポップアートはそれを皮肉や風刺のように捉えた表現のように思えます。

そこに描かれた消費されゆくモチーフ、印刷により付けられた鮮やかでどこかむなしい色…




ポップアートが過去のものになった現在も、この社会の傾向自体は加速しています。

要するに、実はポップアートが提唱した価値観は、

誰もが共感しているものなんじゃないか
と思うんですよね。

だからポップアートは広まったんじゃないかと。




他にNFTアートと絡めて考えたいのは、

ポップアートより前に起こったダダイズムという運動です。

近代現代美術の始まりともいえる運動であったダダイズムは、

マルセル・デュシャンがリチャード・マット名義で発表した《泉》によりその知名度を上げました。




この《泉》、ご存じの方も多いとは思いますが、

なんとただの小便器です。

男性用小便器を横倒しにして、サインを記入して、完成。


当時の人は誰もこの芸術作品を理解できず、

展示料を払えば誰でも出品できるはずの『アンデパンダン展』に出品しようとしたものの、出品は受け入れられませんでした。




この《泉》に代表される、

既製品を用いた芸術作品のことを「レディメイド」と呼びます。


デュシャンが始めたとされるレディメイドは、

ダダイズムの根底にある社会への懐疑や反逆といった思想を発展させたものです。


ここでも「大量消費社会」という背景が登場するんですが、

多くのものがあっさりと廃棄されていく中で、

人々の目に映る情報の量は爆発的に増えていきました。


デュシャンはこうした状況の中でレディメイドを生み出すことで、

人々の芸術に対する思考を促そうとしたんですね。

当たり前にどこにでもある情報の中にすら美の概念は存在し、

それを思考により見つけ出すことが肝要だと考えたわけです。


レディメイドを語る時に間違いやすいのが、

デュシャンは既製品の芸術的価値を訴えようとしたわけではないということです。


そしてデュシャンは、

絵画などの一点モノが持つ一回性こそが高尚であり芸術そのものであるという

それまでにあった芸術に対する価値観もレディメイドによって否定しました。


盲目になってはいけない。

そう言いたかったってことです。





デュシャンについて語りだすと止まらなくなるので()、

一旦まとめると、


NFTアートはこの大量消費社会において、発生して当然の運動と考えることができると思います。

これまでにダダイズムとポップアート、ネオダダもそうですが、

美術史上こうした流れが起こってきたので、


NFTアートも経済情勢や技術の発展など様々な進化を巻き込みながら、

化学反応のように生まれた芸術上の概念なんだと思います。




美術運動はいつでもその歴史上の文脈とセットで語られます。

NFTアートを歴とした芸術運動とみなす場合、

こうした知識はそれを考える上で重要な手がかりになります。




美術史におけるNFTアートの位置づけ、「再生産」




今度は、

NFTアートは美術史の次葉となることができるのかについて考えてみます。


前置きで語ったように、

現状NFTアートは投資先という見方が強いように感じます。


そして、これまでに起こってきた芸術運動と照らし合わせると、

ダダイズム、ポップアートなど、風刺的な思想が強い運動と似た要素があることも分かりました。




仮にNFTアートが新たな芸術運動であるとみなしたとしましょう。

その場合、あまりにも経済上の役割の大きさがありすぎたり、

あるいはそれぞれの個人の思惑がばらけすぎていて、

どうにもひとつの運動とは考えづらいような気がします。


デジタル上で行うものなので世界中の誰もが簡単に参入できますし、

そもそもが仮想通貨のための技術をアートに応用したものなのでしょうがない気もしますが、

現状では運動というよりひとつの革新のような扱いになるような気がしますね。


例えば今や誰もが持っているスマホなんか20年前には想像もしてませんでしたし、

NFTアートも芸術運動のためのプラットフォームというあって当たり前の存在として

社会に融和していくんじゃないかな
あと。


つまり、発表の場としてのポテンシャルは充分にあるので、

なにか大きな芸術運動がこれから起こるような予感はしています。





それでも美術史と絡めて「NFTアートという運動」を位置づけするならば、

自分の場合、NFTアートは美術史の再生産であると考えます。


NFTアートに初めて触れた時、

上記の過去に起こった芸術運動をデジタル上でもう一度繰り返しているような、

そんな印象を覚えました。


多くの人は美術史のことなんて知らないでしょうし、

自分のやりたいようにやってるだけなんでしょうけど、

結局、いつの時代も人って同じリアクションをしちゃうもんなんですよね。

歴史は繰り返すとはよく言ったもんです。


見方を変えると、

デュシャンが望んでいた「思考する」ということを

多くの人ができるようになってきた
ということなのかなあとも思います。





経済が発展して、PCやスマホが発明されて、ブロックチェーンなんていう技術もできて、

いま世界はNFTとかいうよくわからんものにたどり着きました。


今後NFTアートはどうなっていく?とか訊かれても、ぶっちゃけわかりません。

でも、技術革新が起こったことによって、世界はもっと変わっていくことと思います。



美術はこれまでに、セザンヌが規範からはみ出し、デュシャンが既存の概念をぶち壊し、

現代ではパブリックアートなどの作品が美術館の外にまで飛び出してきました。



美術の世界は「もうさすがにできることなくね?」と言われ始めているという状況があるんですが、

NFTアートという新たな土壌が生まれたことによって、

また新たな伸びしろができたと考えていいと思います。


新たな大きい芸術運動が起きるとしたら、それはNFTの上でなんじゃないかなあと。





長くなっちゃいましたが、今回の記事はコレで終わりにします(一気に書いたから疲れた)


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ではまた~。

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